新年度を迎え、桜満開、新しいことが始まる季節
今年は関東の桜が咲くのが約二週間も遅れたそうで、ようやく4月4日に満開宣言がなされた。それならば、例年は三月下旬にはすでに満開だったということになるのだが、どうも記憶がはっきりしない。まあ、多少変動があって自然なのだと思えば、大したことでもない。今年も咲いてくれてありがとう、と言いたい気持ち。
最近テレビのBS4Kで放映されている「新日本風土記」やら「よみがえる新日本風土記」を録画設定していて、時々気が向くと見ている。特によみがえる・・・の方は、50年ほど前に放映された内容が、とても綺麗な映像で見られるようになっていて、自分の記憶が掘り起こされてくるような感覚もあって妙に感動する。
最近の新日本風土記の方は、もちろん現在の各地の諸相が切り取られているので、これはこれで見応えがあって面白い。
いずれも綺麗な映像データとして、後世まで語り継がれ残っていくのだろうな、と思うと、感慨深いものがある。
最近はAI技術の発展によって、現実ではない映像までそれらしく創ってしまうことができるので、その映像が現実の本物かどうかについて、何か確認をする仕組みを作り込んでおかないと、後世の人々が歴史的大誤解をしかねない、というのが少々懸念される。
けれど、そういうことは、後世の人々が議論する楽しみにもなるのだろうから、まあ、なるようになればいいか、などと思ったりもする。
最近読んでいる「太平記」も、史実に忠実なところもあれば、誇張されていたり創作された部分があると言われていて、その判断については諸説あって面白そうなのだが、深入りできるほどの知識もなく、ふ〜ん、と呟くだけ(笑)
私的には「太平記」を読む気になったことの方に意味がある。
第二次大戦以前と以後とで、日本人の常識が大きく変化したというか、変化させられたというべきか。占領軍GHQの徹底した「焚書」によって、それまで当たり前に読まれていた本が姿を消し、読めなくなったことによって、文化的基盤の様相が大きく影響を受けたことは想像に難くない。「焚書」の対象にはならなくとも、そのような社会的雰囲気の中で、昔は普通に読まれていたものが読まれなくなってしまった例も多いに違いないのだが「太平記」もそんな本の一つと思われる。
現代語訳の「太平記」はいろいろある
(現代語訳を)読んでみれば、予想に反して、登場人物たちが折に触れて詠む短歌が随所に散りばめられていたりして、臨場感、情感に溢れた面白い読み物。こういう形式の書き方っていいな〜、などと感心したりする。もう一つ気づくのは、いかにも登場人物たちの生死感の潔いことで、自らの進退が極まった時に、ジタバタせずに辞世の歌をしたためるその所作の立派なこと。
なんだろうな〜、この印象は?と少し考えてみたら、昔、新渡戸稲造の「武士道」を読んだ時にも感じた印象に似ていると思った。
昔の人は若くして命を落とすこと多く、それが幼い時から身の回りで常に起こっていることだったので、生活の中ですでに達観してしまうだろうし、「恥」をかくことを強く恐れる社会風土の中で培われた「潔さの美学」が身だしなみとして身についていたのかな、などと思われた。
それにしても、では辞世を一句、とはならない現代人に比べ、なんとなく教養のレベルが違うな〜などと感じてしまう。
ということで、今年は古き良き日本文化を求めて、いろいろな古典文学に親しもう!と思いを新たにするのだった。